その1

本日2018年3月29日、アメリカ・テキサス州オースティンにて再興された「セリス醸造所」のクリスティーヌ・セリスと「セリス・ホワイト」「セリス・グランクリュ」をはじめとしたすべてのビールに関する日本の正規独占輸入権の契約を結びました。セリス醸造所にとっても初の世界輸出パートナーとなります。クリスティーヌと共に日本中に新たにアメリカにて復興したセリスブルワリーのビールと文化を広げ、我々EVER BREWはビール、醸造、そして食で世界に航路図を作っていきます。

image

このSNSを見られている皆様はご存知かもしれませんがクリスティーヌ・セリスはヒューガルデン・ホワイトを生み出した故ピエール・セリスの娘です。契約時の写真の奥にもピエール・セリスと4歳のクリスティーヌを見る事ができます。
ピエール・セリスがヒューガルデンにいるときから、そして海を渡ってオースティンにやってきたときは二人三脚で父とビール造り、そしてマネジメントを行ってきました。
そのクリスティーヌが昨年17年ぶりにセリス醸造所をオースティンに再興してオースティンでのビール造りを再開したのです。
新たなセリス醸造所ではピエールの孫娘デイトナがビールを醸造しており、これまで知られていたピエール・セリスの歴史に新たな1ページが刻まれることとなります。

image

僕が最初に輸入したいと願い、そして初めて輸入したビールが「セリス・ホワイト」でした。なぜどのビールの本でも語られているこのビールが日本で飲めないのかという気持ちから始まり自分が2005年ベルギーからの正規輸入を始めることができました。
この度、醸造がベルギーのヴァン・スティーンベルグ醸造所からアメリカのオースティンに戻る事となり、今日の契約へとつながりました。セリス一家の歴史は記事の最後に記します。

まさにピエール・セリスに憧れて2004年にベル・オーブ六本木から始まった僕のベルギービールの旅、そしてホワイトビールから始まったピエール・セリスの夢を継いだクリスティーヌのドラマはこれからも続きます。
そしてその新たな1ページを僕らがお手伝いできる、これほどの名誉で贅沢なことはないです。

実際は昨年にもオースティンを訪れ直接クリスティーヌと話を続けてきました。ここには書ききれないので帰国して再度皆様に詳細をお伝えしていきます。
まったくの余談となりますが、ヒューガルデン醸造所の火事の日の話、そんな小話もたくさんしました。。

正直いうと今回のアメリカからのセリス・ホワイトの輸入に関しては少し迷った事もありました。その迷いをすぐに消してくれたのはお客様の皆様です。
うちの事業はセリス・ホワイトによって多くのお客様に愛されてきたのをお客様に会うたびに感じさせてくれました。

今日からは彼女達を日本に招待してみなさんとセリス・ホワイトでフゾンテするのが僕の新たな夢、いや目標の一つです。

クリスティーヌに感謝するとともに
ベル・オーブ六本木から始まり、セリス・ホワイトを愛し続けてくださったお客様皆様、そしてこのビールを伝えてきてくださった卸先の皆様に感謝します。

———————
販売、卸については、6月を予定していますので詳しくは別途お知らせさせていただきます。

契約のこともあり、現在のベルギーにて醸造されていたセリス・ホワイト終売についての案内が遅れました事に関しては申し訳ございませんでした。ただこれから引き続きセリス・ホワイトをみなさんにお届けできる事になりました。

※既存のベルギーにて醸造されているセリス・ホワイトの販売は在庫が終わり次第終了となりますのでご興味のある方はお早めにお試しください。
同じレシピにてヴァン・スティーンベルグ醸造所の「バティスト・ホワイト」として今後は醸造されそちらも我々が輸入します。330ml,20L
※恐れ入りますが、卸販売についての残り在庫のセリス・ホワイトに関しては引き継ぎの問題もあり、これまでのこの商品の既存取引様のみへの販売とさせていただきます。

———————
ヒューガルデンとピエール・セリス一家の物語

ヒューガルデン・ホワイトが誕生する以前、ベルギーブラバント州のヒューガルデン村の一帯では小麦を使ったビールが作られていたものの1957年にトムシン醸造所が廃業することとなり最後のホワイトビールがこの世から途絶えてしまった。

このトムシン醸造所にて働いていたこともある牛乳屋のピエール・セリスは(セリス・ホワイトのラベルにはトムシン醸造所にて働くセリスの当時のものが描かれている)
ホワイトビールを懐かしがる年配の声を聴き、ヒューガルデン醸造所を立ち上げた。
そこで生まれたビール「ヒューガルデン・ホワイト」はあっという間に村を飛び越えヨーロッパ中で名声を得るようになる。

しかし1985年ヒューガルデン醸造所が火事となり、結果的にセリスは財政的理由から醸造所を現在のアンハイザー・ブッシュ・インベヴへと手放す事となる。ここからヒューガルデンのレシピは変更されている。そこに自分の名前を使うことをためらったセリスは次の夢を追うことにした。
ピエール・セリスは娘のクリスティーヌ・セリスを連れて海を渡り、今度はクラフトビールの広がりを見せ始めたアメリカでホワイトビールを広げようと決心したのだ。そして
テキサス州のオースティンにセリス・ブルワリーを設立。そこで生まれたビールが「セリス・ホワイト」である。

しかし醸造所はミラー社の物流参加から結果ミラー社へ売却されてしまうこととなりミラーも2001年セリスブルワリーを閉鎖することとなった。
その後、セリス氏のビールはベルギーのヴァン・スティーンベルグ醸造所にて醸造が行わたが、ピエール・セリスは2011年の4月9日この世を去った。

ピエールの意志を継ぎ、2017年にクリスティーヌ・セリスがセリス・ブルワリーをテキサス・オースティンに17年ぶりに復活させた。セリス・ホワイトを当時のレシピにて醸造を開始することになったのである。
セリス氏がベルギー、ヴァン・スティーンベルグ醸造所にて醸造を始めたセリス・ホワイトと違い、このセリス・ホワイトは当時のヒューガルデンやセリス・ホワイトに使用されていたオート麦や当時のレシピを完全に再現して現在醸造されている。