その4

昨年震災後に始まった一関地ビールフェスティバルinYokohamaですが、どうやってこのビアフェスが始まったのか昨年このブログに記させていただきました。そちらをもう一度紹介させていただき明日9/28からのビアフェスに向かいたいと思います。

今回9/23~25に開催させていただく事になった一関地ビールフェスティバルですが、どのような過程で開催させていただく事になったのか順次紹介して行きたいと思います。 一関地ビールフェスティバルのホームページにも書きましたが、地震後日本全体のメンタリティーが変化し、私自身も私達の存在意義について深く考えさせられました。

実際に横浜みなとビアガーデンの三浦は出身が岩手県大槌町であり、町長が津波によって流されてしまった所でもあります。彼の弟はその町役場の職員です。震災後、連絡が取れない間はなんとも言えない不安感に彼自身襲われ、私自身も何と声をかければよいのかわからなかった。実際私の父親も一関、平泉で生まれ育ち親戚もそこに暮らしています。その中でボランティアなも素敵な素晴らしい事と思いますが、ビール屋はビールで恩返ししたいと感じていました。それがどのような方法を取れるのか、ただ偽善的にこちらで行っても仕方ない。東北の人達と一緒に行ってこその想いを共にした恩返しだと考えていたのです。

今回のイベントを同時に行う格之進の千葉さんとはすしさいしょさんでのすしと和牛とベルギービールのコラボイベントにてお会いしました。最初は千葉さんお酒が飲めないのでという話を聞いてお互いにあまり仲良くなれないのかななんて思っていたのですが、千葉さんが9/25牛の一頭買いをバーベキューでやりたいと話していらっしゃったのでうちの横浜みなとビアガーデンを使ってみてはという話から、そのイベント後に千葉さんに食事に誘われ、将来の私の事業のプランについて熱く話をした所、すぐに意気投合となりました。そこで私が9/23~25に元々東北への恩返しに地ビールのフェスティバルを行いたいので一関の地ビールフェスティバルを行ってその中の一つのイベントとして格之進さんのイベントを行ってみてはと提案した所、千葉さんは主催者のいわて蔵地ビール(世嬉の一酒造)の佐藤航(わたる)さんにすぐ連絡をつないでくれました。やはりいきなり一関の地ビールフェスティバルを横浜でといってもよくわからないだろうと思い、すぐに一関に行く事を決心。古城戸を連れていく事にしました。すると事務所にいたうちの金久保がその週末にある一関の地ビールフェスティバルにかけつけるという事で、それだったら勉強がてらビアフェスだけでなく3人でいわて蔵ビールへと向かう事になったわけです。格之進の千葉さんと出会って10日もたたずに一関ビアフェスティバルを横浜で行える可能性が出てきました。やはり口に出して言ってみるものだ。

お盆の最中の中、私(菅原)と古城戸、金久保は朝一番の新幹線に乗って一関に向かった。一関に着いてが「うちの常連の千葉さんが一関出身でいま帰省してるみたいです。」といって電話をしたのだが、その間に偶然同じ名字の格之進の千葉さんからも「今日はいわて蔵ビール(世嬉の一酒造)含め色々お連れしますので迎えに行きますよ」といって連絡があったので千葉さんを駅で待っていた。

すると数分後にグリコのおじさんのように両手をあげて1人が近寄ってきた。格之進の千葉さん朝からテンション高いなーと思ったが実は常連の千葉さんだった。これにはびっくりしたというか笑った。近くをランニングしていたようだ。まさかの一関での再会。ビールの縁を出張の最初からスタッフ一同が感じる事となった。

常連の千葉さんと少し話をしてまたお店での再会を誓い、10分程して格之進の千葉さんが僕らを駅で拾ってくれ、一緒にいわて蔵ビールの佐藤航(わたる)さんの元へ向かった。 
いわて蔵ビールは世嬉の一酒造という一関の酒蔵が醸造を始めたビールで現当主の息子である佐藤航(わたる)さんが醸造責任者をつとめている。

いわて蔵ビールに到着してまずに思った事は、やはり日本酒の蔵として始まり江戸時代から歴史を持つだけあって、まさに蔵という威厳のある場所で、飲食店から見学場所、醸造所と外から見ていてうらやましく感じる素晴らしい建物だった。写真うまく撮れなくてすいません。次回必ず!! 

挨拶をして始めて航さんと挨拶を交わした。挨拶を交わしてすぐにどう話をしてよいかわからなかったけれども、すぐに千葉さんが私達、そして私の事をすごく想いのある紹介で航さんに伝えてくれた。千葉さんまで一生懸命になってくれていたのがよくわかった。そして、用意した資料でこちらから一関ビアフェスティバルinYokohamaのお願いを一通りすると少しづつ緊張がお互いにほぐれてきた。

話をしはじめて15分?いや30分経っていたかもしれないが、航さんから協力しましょうとの言葉をいただいた。航さんはすごく好青年といった感じで確か今年40才になるという事だが、千葉さんと同じ年には正直見えない。(千葉さんごめんなさい。)素敵な方だ。(もちろん千葉さんも同じくらい素敵です。)一通り話が済んだ後はうちのスタッフ全員お楽しみの醸造所見学。ビールの醸造設備のある建物は今回の震災で建物の壁にすさまじい亀裂が入り、もう使えないかと思ったそうだ。たしかに写真を見ていただけれとわかるがコンクリートを埋め込んである部分はすべて隙間になっていたりわれていたようだ。もうこの建物は使えないと思ったと航さんが話しかけてきた時、今回の震災の大きさを早くも痛感する事となった。

さらなるお楽しみは。試飲である。それは素敵お仕事。ビールを作る方とビールを飲む事程楽しい事はない。みんなに和風のカウンターに案内してくれてそこに座り、そして航さんはカウンターに立って彼の作るビールの説明を聞きながら談笑が始まった。やはりビールを交わしながらの会話が僕らは好きだし、今回のビアフェスの話だけでなく、ビール醸造から様々な話をする事でさらに航さんと心を通わす事が出来たと思う。 
別れる際にみんなで記念撮影をした。そのまえにデリリウムTシャツと千葉さんと航さんに本人と奥さん用をプレゼントしていたのだが、航さんは奥様用のTシャツを来て写真に映ったのでぴちぴちのTシャツでした。(笑)そこからは千葉さんの門崎牧場(かんざき)の牛舎に向かう事となった。

いわて蔵ビール(世嬉の一酒造)の次は格之進さんの千葉さんが自ら経営するいわて門崎丑の牛舎へと向かう。

まず和牛の話からすると和牛と名乗れるのは

  • 黒毛和種
  • 褐毛和種
  • 日本短角種 (アメリカンショートホーン×和牛)
  • 無角和種

の4品種に加えてこれらの交配や交配種とこの4種との交配も和牛となる。日本単角種(A3クラスまで)や無角和種はごく少量の生産となっており、格之進が育てる門崎牛はすべてが黒毛和種となる。

まずはこのいわて門崎丑の牛舎を見学させてもらった。この牛舎は元々畜産関係のコンサルを請け負っていた方が牛舎を開設したが理論どおりにうまく行かずに千葉さんの会社が引き継いだとの事。餌などを餌やりの上部に入れ物を作って、餌やりをごく少人数で牛舎をまわす等の方法を以前の経営者はとっていたそうだ。

しかし、牛は生き物。千葉さん達は牛の日々の体調を見ながらの餌やりを行わなければよい肉質は作れないとの考えで日々牛達の様子を見ながら大切に育てている。えさに関しても別の生産者達と別法人を作り特別にえさを作っているとの事だった。

ビール酵母が使われているとの事でここでも嗅ぎ慣れた香りが餌から感じられ、なんとなくうれしい気持ちにもなった。牛が夏ばてしないように扇風機も当てられていて、様々な所で牛に対する愛を感じる事となった。

そこから、もう一つの牛舎に連れていっていただいた。こちらは母牛とその母牛から生まれた子牛を育てる繁殖牛舎であった。

ここでも和牛生産の非常に大事な話を。和牛農家は主に繁殖農家と肥育農家に分けられている。繁殖農家というのは、交配、そして母牛から子牛を生産してセリで要は子牛を肥育農家に販売して生計をたてている。肥育農家はセリで繁殖農家が育てた子牛を購入した後、肥育して30ヶ月齢程で出荷するわけだ。

門崎牛の千葉さんは旧来のやり方とは違う繁殖と肥育を同時に行う農家である。これも味わいのためだそうだ。母牛から子牛を生み育てる繁殖農家には子牛を高くうるために味わいというよりもいかに子牛を太らせるかを考える農家もあり、これは味わいとは目的が別の所にある。

この牛舎では、子牛を高く売る必要もなく、親と子をすぐに別の仕切りに分けて早く多くの餌を与えて無理に太らせたりする必要もない。それによって手間と効率は悪いが一貫して品質の高い和牛へ手間暇を与える事が出来る。そのための一貫生産である。


しかし、すべての子牛の繁殖を自社で行うのは種付け・出産・子牛の飼育・肥育、そして出棺までの時間が40ヶ月も掛かるためキャッシュのリスクが高い事(これはベルギービールのランビックやレッドビールにも非常に似ている)、子牛の病気などリスクなどにより、半分はセリで自分達の目指す品質の子牛を購入してリスクを抑えているという。(これも半年程の熟成と2、3年の熟成をブレンドするレッドビールやランビックと原理は似ていると感じた。)

説明を聞いていて千葉さんがいわて門崎丑にかける気持ちがひしひしと伝わってきたし、古城戸、菅原だけでなくこれからも多くのスタッフをここに連れて来たいと強く思った。

門崎牛舎を案内いただいた後、格之進の千葉さんは一関から気仙沼の復興の状況を見せたいという事で僕らを車で連れていっていただける事となった。正直なんといえばいいかわからない気持ちだったが、やはりビールで東北地方に恩返しをと言っている以上は現状を知るべき僕らは考えていた。

複雑な心境の中、一関から気仙沼へと続く道を向かっているあたりで千葉さんが岩手いわい鶏の生産農家が集中している室根(むろね)地域を通っている所で産直の唐揚げ店があり、テイクアウトなのだが、多くの人が唐揚げを求めて並んでいた。古城戸はうちの中でも唐揚げ好きでも有名であり(古城戸と私の出身である北九州~大分中津あたりは唐揚げがみんな好きで有名。) 本人も非常に美味しそうにいわい鶏の産直唐揚げをほうばっていた。これには千葉さんも古城戸さん今日一番うれしそうですね。と一同終止なごやかな雰囲気であった。

気仙沼は宮城県という事もあり、走る車がだんだん宮城ナンバーが増えて来て色々な事が頭の中に浮かんできた。

そして気仙沼に到着し、次第に被災地の現状を目にすると一同話す言葉が見当たらず静かになった。気仙沼の湾岸はまさに壊滅状態というしかない状態。ほぼ生活は不可能だと誰もが感じた。湾岸手前の家屋が半壊のようなまわりでそれでも人々は暮らし、時には笑顔を見せているのをみて震災から時間を経過しているのを感じた。

家屋の倒壊などはメディアを通じてある程度想像できてはいたのだが、やはり異臭については現地へ行かないとわからないと思う。そして一番感じた事は、地盤沈下による海水の侵入がこれほどまでに恐ろしいのかと思った事だ。車で走っていても地盤沈下により海水が道路のいたる所に満ち潮で冠水し始めていた。ほぼ海水と地面が同じ高さになっており、これほど海水がせまって来る事に圧迫感を感じ恐怖心を感じた事は正直なかった。この海水が津波で迫ってくる時の恐怖などはもう想像さえできない。正直観光客のようにただ写真を撮る気にもなれず、数枚の写真と海水の冠水の状況をおさめたくらいだった。

この状況を見て一番に感じた事は、募金や被災地支援は形を変えても長期に渡って継続して行かなければ意味がない。こちらで開催する一関地ビールフェスティバルを長い間に渡って続けて行く事が私達にできる一番の現地への恩返しになる。僕ら3人は小さくしかし夢は大きく大事にこの地ビールフェスティバルを行おう。そう強く心に刻み込んだ。